たまに思うもし自分の大切な人がこの世からいなくなったら私はどうなるのだろうと。私も人並みにご飯が食べれなくなったりするのだろうか。ペットが亡くなった時胸が張り裂けると思うほど辛かった。そんな辛さを感じて私も正常な人間なんだと少し安心したのを覚えている。

 

昔私の部屋でたびたび鏡が落ちたり、夜中に音楽が流れたりとおかしなことが続いたことがあった。なのになぜか私はその部屋で寝続けた。母は怖くて泣いていたのに私は平然としていた。かと思えば何も起こらない部屋が怖くなって自分の部屋で寝れないこともある。

 

気づけば私は自分の中に潜む怪物の機嫌取りをするようになっていた。すぐに暴れ出そうとするワガママな怪物を制御し隠して生きてきた。相手の気持ちなんて考えずに好きなことを言おうとする怪物を抑え込んできた。

 

多少嫌なことを言われても我慢したし、どう考えてもひどいっていう状態でも自分を押し殺した。だってどこかで私の中の怪物が私の制御をすり抜けて何かをしていたのかもしれないし、一回怪物を解き放ってしまったら、もう取り返しがつかないことをわかっていたから。

 

 

 

 

ゴールデンウィーク明け

ゴールデンウィーク明け。何もかも楽しくないゴールデンウィーク明け。

 

こんなに憂鬱な気分になるぐらいならこんなものなかれば良いのにと思ってしまうゴールデンウィーク。せっかく続いていた生活習慣改善も今日でぱあになってしまった。

 

何も楽しくなくてもお本当に嫌な気分でものすごく憂鬱。

 

休日なんてものがなくなれば良いのではと思ったり思わなかったり。毎日を生き抜くことで精一杯だから太るし、目先の利益を優先する。そろそろやめたい。だけどだけど憂鬱さはしんどいからとってもしんどいから許してほしい。

新学期

新学期です。頑張って学校に行ったら少し緊張したでもウキウキしている一年生や余裕に人生充実してそうな高学年とそんな中でポツリ怖くて一人でしんどいなと思いました。これでももうすぐ20歳です。ちゃんとしなきゃ、しっかりしなきゃと思うのに、家から出れなくて怖くて。甘え、怠惰、そういう言葉で片付けられる人生。人が自分を見る目が怖くてこもっていたいと思ってしまう。一年前、二年前の自分とどんどん離れていて、それはむしろ後退なのではと思ってしまう。きっと進んでいるところもあるはずなのに、後退しているところばかりに目を向けて自分を卑下してしまう。それが対第三者としても明確になってしまうのがそしてショックを浮きえてしまうのが新学期なのかもしれない。いつからこうなってしまったんだろうと思う自分。そんなことを考える自分も嫌い。大嫌い。どうせなら今ある自分にほころを持っていきたいのに、誇れない。じゃあ変わればいいじゃないかと言われても、変わろうとそう思えるだけの力もない。ただ生きてるだけ。ただただ生きてるだけ。でもそれでも生きてていいよね。そうやって思っちゃう。使命を持って生まれてきたとか、絶対に得意なことはある、とかそういうことじゃなくて、ただただ生きていても許してほしい。逃げても許して欲しい。

飽き性という言い訳

この日記は私の嫌な部分や気持ち悪い部分が詰まった一種の吐口の様なものだ。裏垢を作って文句をたらたらいうことで良い友情関係を保ったり良い人を演じ続けられる人もいるだろう。そんな感じで私はここに自分の気持ち悪く暗い部分を置いていこうとしているのである。

 

だから突出した悪いオーラをここにおいてどうにか吐き出しているという感じである。頭も使わずになんとなくここに置いていくという感じである。

 

私は飽き性だ。何も続かない。やりたいとずっと願っていたことも何もかも続かない。気づいたらやめている。だけど当然続けるべきだとおおもわれていることほどやめない。学校はやめないし、歯磨きはやめないし、お風呂には入るし、課題も出し続ける。何も自分がやりたいと思って始めたことは平気でやめていく、少し躓いたりしんどくなると本当にまるで何もなかったかのように。一年前わたしはやりたいことしかできないと今の大学に進学した。好きな様に色々やらせてくれる学部だがそうだからこそ自分の選択や行動に責任が伴う。承知の上だった。自分にはぴったりだと思っていた。なのに気づいたら自分は本当にやりたいことをやる人間ではないのではと思う様になった。これまで色々なものをやめてきた。今はそれが留学である。いきたいと思い申し込んだはずなのに英語のスコアが取れずしんどくなりそもそもなんでいきたかったのか、本当に行きたかったのかさえわからなくなっている。でもそんなの言い訳でただスコアが取れないので諦めようとしているだけなのかもしれない。もう正直何が何だかわからない。躓くと他の道を歩みたいと思う。そしてそっちに移ってもまた後悔。本当にばかみたいでアホみたいだ。飽き性というのも続かないというのも本当はただの良いわけで努力することができないだけなのであろう。

 

 

決めつけ

自分が何とかどうとかそういうの考えないで生きていきたいし自分をどっかのジャンルとかに含めて考えたくない。なのにいっつも自分はこうだからとか考えてしまう。苦手得意とかもよくわかってないのにこういうのが好きでとかそんなの考えないで好きなことを好きな様にやればいいのにどうしてできないんだろうと思う。決めつけんな自分で向き合ってしっかり戦え逃げんなこのばかやろおおおおおおおおおお。守りにばっか入って何が人生だよ。何が楽しいんだよ。でも挑戦してもすぐめんどくさくなってやめてしまう自分。一つのことしか一時期にできない自分。アホみたいばかみたい。あはははどうして頑張れる時期もすごい時期もあるのに遠うしてそれが今は続くないのだろう。どうしてどうして

 

努力

努力はやろうと思ってやる小野ではなく自然としている者であると思う。私の場合はそうだ。どんなに努力しなきゃいけない状態であっても自分の気持ちや状態が良い具合に揃わないと努力はできない。だからこそいつもぎりぎりなのである。勉強を始めるのも努力を始めるのもぎりぎりである。だから努力をしなかったとは言わない。ただ努力が足りないと言う状態に陥ることがある。もっとやれることはあった。ただもっと時間があればと悔いる。もっと時間があって、もっと余裕があれば、私はもっともっとでもそうやって人生の瀬戸際にいる今絶対に諦めたくない、絶対に。努力が足りなかったなんて絶対ニヤだk

弱さは強さ

私の好きな歌手ってみんな自分の苦悩やもがきを全面に出してそれでも完璧じゃなくても強くなくても自分の人生を諦めずに進んでいっている人なのだと思う。これまで弱さとか苦悩とかそう言うものは絶対に外に出しちゃいけないって思ってたけどそれこそが人を引き込む理由なのかもしれない。生まれてから覚えている限り自分が幸せだと思ったことはないが世間からしたら私は幸せなのだと思う。だからそんな私がぼやいたりしちゃダメなんだと思ってたしもっと大変な人はたくさんいると思ってた。でも弱さを外に出してそれでも頑張る姿はカッコよくて人を惹きつけるんだって思った。だからしんどかったらしんどいって言おう。疲れたら疲れたって言おう。そうやって進んでいくことが大事なんだよ。それがどんなに他の人の方が成功していて良いなと思うような暮らしでも、自分を見失わずに自分として生きていくことが何より大事なのだと思う。そう言う意味で私は段々と社会から現実から離れてきている。でもそこで私を繋ぎ止めているのは風船につけるほどの細く強い糸で、そんな人生甘くない、可哀想なやつになるぞ、後悔するぞという言葉である。

 

そんなことを考える中で試験はあと数日だ。絶対にもうここで蹴りをつける。試験にとにかく専念して、自分を繋ぎ止め鎖に繋ぐ。これはネガティブな意味ではなく人間何かを成し遂げるためには自分を鎖につがなければならないことが多い。ずっと繋いでいてはダメだがずっと浮いていてもダメなのである。私は決心しなければならない。繋がれる決心を。繋がれよう。方法はもうそれしかないのだ。しんどくても苦しくても頑張るんだ。