guilty

久しぶりだと思います。久しぶりですね。

前回書いたのを見てみたらだいぶポエムでびっくりしました。最近は楽しいことがあまりないです。ネトフリを家で見るのもたべるのも何をするにも実質が伴ってないというか、もう普通に嫌だというか、それなら勉強すれば良いのではと言われたら確かにそうで、でもそれもなんか嫌で、結局何もかも嫌で家帰るのも嫌で。まあイヤイヤ期っていうかそんな感じです。

 

赤ちゃんのイヤイヤ期はきっと親は大変だろうと思っていましたが、赤ん坊の方も相当大変だと思います。何をしても嫌な時間なんて最悪でしょう。

 

重いバックを持ち歩いていたせいか背中が痛いです。その上頭も痛いし視界も滲んでいます。まあもお何もしたくないしなんならもう寝てたいし。でも寝てたら寝てたらでなんか罪悪感で。結局何してても罪悪感で。まあだからここは自分の愚痴を吐きだめる場所なんです。だから愚痴しか書いてないじゃんって今自分にguiltyがあるのは意味がわからないのです。

 

あとね朝思ったんです。人間って自分の居場所みたいな探したがるじゃないですか?I do not belong here, looking for the place for me ,的な。でもなんか私思ったんです。私はスライムだって。どこにでも頑張れば適応できるしそこでキャラクタとして受け入れられる。結局自分なんてなくてそれでいいんだって。順応するっていうのはその色に染まるってこと。染まれないなら染まらなくていいし、染まりたくないなら尚更染まらなくて良い。

 

どこにいても何をしていてもそれは自分で、他人の幸せを自分に当てはめる必要なんてない。

食欲

食欲

 

自分のお腹に怪物を身籠ったと言われてもあっさり受け入れてしまうだろう。そのぐらい信じられない量を食べてしまう。口に何も入っていないのが、怖くて口に何かを入れていないと不安になる。6時間食べ続けることも稀ではなく、暇さえあれば食べ物を食べ、食べ物のことを毎日考えている。

 

もう病的だと自分でも感じているがどうにもならない。こういう時期が一番怖いのだ。まるで自分が自分ではないみたいに。運動なんてできるはずもなく、夜には熱が出る。こういう時人は妊娠を疑うのだろうが、それだけはあり得ないのでまあ心身に異常が起きているか何かが私の体を奪おうとしているのだろう。

 

こないだは2週間で8キロ太った。これに関して言えばただのデブになる道なんだということもできるが、過食と言えば過食なのだ。でも思うのである。過食で死ぬことは何十年も後のことであろう。拒食の友達の相談に乗ったが、私も過食で困ってるなんて言えなかった。

 

でも過食の何が悪いって、まず自分を責め続けてしまう。「なんで自分はこんなにダメなんだろう」と思う。そして、見た目もどんどん醜くなっていく。そこでも「何で自分はこんなにダメなんだろう」と思う。極め付けはインスタに載ってる毎日運動をして友達とキラキラ写真を撮っている人を見る。「あー自分はもうダメな部類の人間なんだ」と思う。

 

ただの過食だ。それだけが自分の人生を狂わしていくのが目に見えてる。でもこれがデブへの道というものならデブになる過程なだけなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

あれ私、昨日何したっけ。

あれ私、昨日何したっけ。

学校行きたくないとほざきながらたった90分のために学校に120分かけていき、授業中にジャージャー麺が食べたくなって帰る途中の韓国料理屋さんに行ったはいいもののなんか明らかに臭かったから隣の定食屋さんでご飯食べて、でも量多すぎて食べ終わった頃には死にそうで、なのに帰りのスーパーでケーキとマシュマロとなんかもう覚えてないけど色々買って、でそれ食べながらアメリカのドラマを日本語字幕に日本語吹き替えで見て、で3時間ぐらい寝てで起きてドラマ見ながらまた食べてそれで寝て、で6時に起きちゃってでもまた9時までそんなに眠くないのに寝てそれで11時までドラマ見ながらご飯食べて準備してそれで家出てきて

で学校に行く道で「あれ私、昨日何したっけ。」

今日は調子が悪いなと思い朝起きて頑張って学校に行き、死にそうになりながら帰ってきたら微熱が出てました。あーやっぱりなという感じです。1ヶ月の三分の一は微熱が出て、4分の一は生理痛でっていう元気なことがほとんどないということですね。おかげでディズニーも薬無しではいけないですし、夜遅くまで人と会っている時は必ず次の日は潰れます。微熱がもう日常生活の一部となってしまってある時から慣れてしまってなんとなく生活できる様になってしまってます。まあしんどいことには変わりないのですが。はは面白いですね.

 

扉を開ける

自分の扉を開ける

自分の好きな部屋が自分の中にあってそれが自分の興味分野なのかもしれない

でもその扉を開けるのが少し面倒で、いつも入っている部屋に入りがち、でもいつも入っている部屋が必ずしも自分の居心地の良い場所であるとは限らない

通い詰めていない部屋に自分の一生住んでいけそうな部屋があるのかもしれない。

だから扉を開けることが面倒だからといってその場所があなたにとって嫌な場所なわけではない

ただその扉を開け続けることは面倒なことで人間は同じ部屋に行きたがる

自分にとって扉をあけつづけ、あーもうこの部屋以外に良い部屋はきっとないだろうと思い続けるまで開け続けられれば良い

ただそれhものすごくしんどく簡単なことではない

人生という名の迷路

今日は日記に書こうと思っていたことがあったんですが忘れてしまいました。だから適当に書き始めますね。今日は休日でした。やらなきゃ行けないことはそれなりにあったんですが、気づいたらもう12位前ですね。本当にもうダメです。皆さんは地面に足をつけて歩いてないなと思う感覚はありませんか?私は結構そういう感覚になることが多いのですが、今は脳みそが浮いてる感じがします。フワーって生きてるなって感じですね。

 

私は大学生なのですが、サークルは四個ほど入りましたがどれも続きませんでした。まあ要するに大学生!って感じの生活とは全く関係のない世界で生きているんです。たまにあれ私って何してるんだろうと思うことあります。ダンスでもスポーツでもピアノでもまっすぐ向かってる人を見るとすごいなって思うし、自分もそうなりたいって思います。でもなかなかそうなれないのが現実で、あーあって思うことが多いです。こないだ自分の芯を持っていて頑張りたいことがある子に出会って、「好きだからそんなに頑張れるの」って聞いたことがありました。そしたら「好きとかいう感情はもうなくて、もうこれを無くしたら私には何もなくなっちゃうから」と話していました。私と同じ大学にいて、サークルにも入っていて、専門分野も見つけられてる彼女の言葉は私にとってあまりにも残酷なものでした(私はそもそも何もないのに、たくさんある人がこれがなくなると私は何もなくなっちゃうと言ってることへの違和感もあってですが)。「あー結局は失うことへの恐怖が人間を追い込み、その追い込みが成果につながるのか」と思いました。

 

基本的に私は上を目指していこうという感情が根本的になくて、視野を狭めることが少し怖い気がします。そんな自分にとって失うことへの恐怖は基本的にないのです。なんなら、一つものをただただ見つめて信じて進み続けることの怖さまであります。まあいろんなものを簡単に投げ出しすぎてきたのかもしれません。

 

いつかの受験の時に塾の先生が「今ここで志望校に受からなかったとしても、そのあと巻き返すチャンスはいくらでもある。でもここで怠けて自分を裏切ると一生自分を信じられなくなる。自分にはできないと思うことが習慣になり、頑張れない人間になる。そうやって人間は負け犬になるんだ。」正直今考えると私にとって他の人を負け犬と見ている時点でなんて視野が狭い人間なんだと思ってしまいます。でも頑張るためには下に行きたくない、上に行きたいと思うことが必要なのかもしれません。自分を追い込みたくない私は今野自分を正当化して生きているのかもしれません。

 

嫌ならやめればいいじゃん、辛いなら投げ出せばいいじゃん、しんどいなら逃げればいいじゃん、そういう言葉は自分への甘えに過ぎないのではないかと頭のどこかで考えつつ、みんな限界で生きてるんだ、自分だけ安心安全な場所で自分を正当化してていいのか思っているのでしょう。だから自分を持って自分を信じて進んでいる人は私にとっては怖い存在なのです。こんな自分が嫌だし、ダメだと思うけどそこでも何も変われない自分はやっぱり負け組なのではとどこかで思っているんでしょう。

 

自分を信じて進んでいける人間が羨ましい